今までのまとめ

結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。 1伊邪那岐伊邪那美は葦原中津国(鳥取県北栄町)を造るため蒜山高原より倉吉市の新宮神社に降臨していた。伊邪那岐伊邪那美から逃げて葦原中津国にたどり着くまでの黄泉(黄泉津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市中心市街地)から葦原中津国(鳥取県北栄町)までの鳥取県道23号線である。伊邪那岐が最初に禊をした原は北栄町原であった。伊邪那岐三貴神天照大御神・素戔嗚・月読命)を葦原中津国に出迎え、彼らが治めるべき国を命じた。素戔嗚以外は蒜山高原に上がった。高天原蒜山高原岡山県真庭市)である。蒜山高原には三貴神以前の神々もいた。 2天照大御神は男性である。天照大御神道教の方士徐福である。徐福一行は辰韓新羅)にしばらくとどまったのち次々と伯州(伯耆国)に渡り、徐福本隊は小さな湾(葦原中津国)に到着した(紀元前210年)。徐福は三神山〈蓬莱山(大山)・方丈山(烏ヶ山)・瀛州山(蒜山)〉に上がり仙薬を探したあと、蒜山高原高天原)から鳥取県中部に降臨して始皇帝の命令に従い、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉王野・方見邑)と広沢(葦原中津国=北栄町大島周辺)を得て、王(天照大御神)となった。月読命保食神であり女性である。 3素戔嗚は葦原中津国(倉吉市谷)で泣いてから蒜山高原高天原)に上がり、降りて三朝町山田(ヤマタ)にいた八岐大蛇を退治した。八岐大蛇は第一次の徐福一行(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。素戔嗚はその後、鳥取県智頭町(木国)の那岐山にいた伊邪那岐を追って、稲田姫鳥取県八頭町大江郷に住んで大国主を生んだ。その後、素戔嗚は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社に須勢理姫(宇迦之御魂神)と住んだ。大国主が冒険した根国(黄泉国)は鳥取県倉吉市中心市街地であった。大国主はスセリ姫を背負って黄泉比良坂の麓から宇迦能山(北栄町茶臼山=伊那佐山=大神山)に逃げた。素戔嗚は一人になってから東山神社に移り、オロチを斬った剣を天神川の対岸の大原神社に奉納した。倉吉市大原を石上といい、石上神宮倉吉市大原の大原神社であった。 4大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに大年神や兄の八十神(準王一族=出雲神族)と一緒に多くの妻子を住まわせていた。大国主八島士奴美神)は須勢理姫(宇迦之御魂神)と一緒に北栄町茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山の松樹庵を本拠地として少彦名とともに、全国の国造りをしていた。伊邪那岐大国主のいう国造りとは、人口を増やすことであり、そのための育児・食育の環境を整えることであった。少彦名がいなくなってから、天忍穂耳(大物主)が大国主と協力して全国の国造りをした。この時の天忍穂耳(大物主)の本拠地は北栄町下神(しもつみわ)の三輪山(神山)であった。天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきて交渉した伊那佐小浜は鳥取県北栄町茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)にあった。大国主が建ててもらった高い宮殿のあった多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。 5天照大神月読命保食神)・饒速日命一行は鳥取県江府町鏡ヶ成より野添経由で倉吉市関金町神田神社に降臨し、天照大神月読命保食神)一行は伊勢野の天照皇大神宮鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。建御名方は琴浦町の方見郷(加勢蛇川周辺)に居た。饒速日命鳥取県北栄町の土下山(鳥見の白庭山のちに天の香久山)に降臨し定住した。饒速日命が亡くなったので、2番目に弟の瓊々杵命が鳥取県北栄町上種・茶ヤ条の大宮神社に降臨し、葦原中津国を平定した。「笠沙之御前」は鳥取県の北条砂丘であり、「葦原中津国」は鳥取県北栄町大島を中心にした地域であった。瓊々杵命と同時に豊受姫倉稲魂命)は月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人であった。瓊々杵命と木花之佐久夜毘売の子の火火出見命(鵜草葺不合)は辰韓に行き豊玉姫と結ばれ、五瀬命が生まれた。また、玉依姫と結ばれ神武天皇が生まれた。火火出見命(鵜草葺不合)は倉吉市大谷の四王寺山(日向)に宮を定めた。 6神武天皇の四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山(日向・畝傍山)で生まれ育った。神武天皇の四兄弟は九州平定のため、また二男と三男が大陸に渡るため、九州に行った。四兄弟の目的は準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。宮崎県から奈良県に行く神武東征は藤原氏によって作り替えられた創作物語であった。九州平定後、イツセとイワレヒコは倭国鳥取県中部)に帰ってきたがナガスネヒコの矢があたり、イツセは鳥取県智頭町(木国)で亡くなった。イワレヒコは広島県福山市まで退却し福山市を本拠地にして倭国鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。摂津国の東奈良遺跡に行き銅鐸絵画ではなく土器絵画にするよう指導した。しかし奈良までは行かなかった。イワレヒコは岡山県旭川沿いに蒜山高原高天原)に上がり饒速日と同じ鏡ヶ成から野添経由で高城地域(宇陀)に下りて、留守の間に倭国鳥取県中部)を占拠していた準王一族(出雲神族)を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位した。二男の稲飯命辰韓に行き紀元前57年に新羅を建国した。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「ソ(徐)ラミツ」とし、稲飯命新羅国の国号を「ソ(徐)ナバル」とした。 7欠史8代の天皇鳥取県中部にいた。第2代綏靖天皇の皇居は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社。第3代安寧天皇の皇居は湯梨浜町津観音堂。第4代倭国大王懿徳天皇(在位40年~75年頃)は奈良を平定し、銅鐸祭祀の一族に線刻土器祭祀を始めさせた。また、初めての中国への朝貢倭奴国倭国に従う国)にさせた。奈良を平定したのは神武天皇ではなかった。皇居は倉吉市小田山。第5代孝昭天皇倉吉市穴沢の灘手神社。第6代孝安天皇北栄町大島(灘手が秋津のトナメに見える)。第7代孝霊天皇(在位145年~170年頃)は湯梨浜町宮内の倭文神社。第8代孝元天皇卑弥呼・大吉備津彦・若日子武吉備津彦の兄)の皇居は倉吉市小田。第9代開化天皇(若日子武吉備津彦・倭建命)の皇居は北栄町瀬戸の観音寺。欠史8代の皇居は奈良の石碑だけとは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。倭国王家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国に神道の社を建てて統一するまで、準王一族(出雲神族)と対立していた。準王一族は生贄の風習を残す殷王朝末裔であり、かたや人命を大事にして人口を増やしたい倭国王家である。準王一族の祭祀を変えるまで相いれることはなかった。倭国史書を改ざんしたのも半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)であった。同族が平定される様を残せなかったし、神武東征との整合性から2代から9代までの旧辞は消した。 8倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲神族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。稚日女命と倭姫命藤原氏に名前を変えられた卑弥呼であった。内藤湖南(倭姫説)と笠井新也(倭迹迹日百襲姫説)はどちらも正しかった。藤原氏国史改ざんによって混乱が生じていた。卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。